メソッドのエピソード
2023年10月21日

支部を変えるということ

 支部を変えるということ

 2週間寄り道をしたので本題のワクワクの話に戻ります。子供の頃のワクワク感は楽しいことが始まる前の瞬間に感じる事が多かったと思います。遠足の前日の夜などに感じる期待を含んだワクワク感です。大人になると自分の仕事に対ししての成果とやり甲斐等の期待感。それが思う様にいった時の高揚感と達成感を同時に感じられる瞬間ワクワク感を感じます。ブログで取りあげた23才の新社会人の方は早くもこの仕事に対するやり甲斐も期待も無くしてしまったのかもしれません。しかしこの失望感をエネルギーに変え、この状況を変えてやろうと考えたならワクワクしませんか。但し、ワクワク感以上のリスクと困難と時には仲間から外れる孤独と向き合う必要も出てくるかもしれません。ですのでお薦めはできない考え方であり,生き方と言えます。失敗しても後悔もできません。全部自分の責任において自分で処理しなければならない感情もあります。それでも今自分がいる世界の閉塞感をぶち破って新しい世界を作りたいと思い立ち目標に向けて一歩ずつであっても確実の前進していると感じる瞬間があればこれ以上ワクワク感を感じることはありません。
 このエピソードのスタートは2002年の4月になりますが、その一歩を踏みだすエネルギーや切っ掛けとなったエピソードも含め話させてもらいます。この年の4月から千葉県小中体連市川・浦安支部陸上競技専門部 市川・浦安支部長という役職に就きました。前任者の斉藤先生(当時浦安市立堀江中)にお願いしこの職を引き継ぐ形での就任です。これには目的が3つあります。当時、私も堀江中で陸上部の顧問をしていました。そこで是非やりたい事。それが千葉県通信大会、並び県総合体育大会での総合優勝、400mリレーで千葉県通信大会で勝ち全国大会に進むこと。最大も目標が千葉県総合体育大会の800mリレーで市川・浦安支部が優勝すること。この目標を5年間という期間で実現する。目標ではなく断言であり5年で達成する使命と考えていました。
 2002年シーズンが明けて最初の記録会のプログラム編成会議の後の食事会で自分の抱負をその時に手伝ってくれた先生方に話したところ難しいと異を唱える先生がいました。男性の中堅の先生です。彼曰く総合優勝を狙うチームはそれぞれの種目を専門に担当する顧問が複数いなくては難しいといったことを言っていました。しかし、私はそれは違う勧化があり、それぞれの学校の部のことではなく支部を変えなきゃどんな良い部を学校で作っても県ではは通用しないと意考えを強く持っていました。私が専門部長を斉藤先生から引き継がせてもらったのは支部を変えるため。支部を変えなければ上に掲げた3つの目標は絵に描いた餅です。では何故支部を変えなければ目標は達成できないと考えたかその理由は1983年まで遡ります。

1983年7月17日
 1983年4月より千葉県印旛郡富里村立富里中学校に体育教諭として赴任しました。大学を出て1年目のピヨピユの新米教師として始めて臨んだ印旛郡の総合体育大会の日です。運が良い事に新採用の年から自分が希望する陸上の顧問をやらせてもらっていたので顧問として初めて臨む夏の総体の時です。当時は県総体のリレーの選手は支部選抜で選手を選びます。大体が100mと200mの選手で構成します。この印旛郡総体の成績が 菅野(佐倉中)100m1位 200m2位 芦崎(佐倉中)100m2位 200m1位 渡辺(富里中)100m200m3位 そして両種目4位の菊地(佐倉中)となりました。佐倉中3名に富里中の生徒が一人が食い込む展開。それにリレーの選手として絡むであろう400m根本(佐倉中)と佐倉中メンバーに他校の生徒が一人加わるといった状況になります。
 1週間前に行われた県通信大会で渡辺は3年100mで5位入賞。菅野(200m優勝)芦崎は(100m優勝or2位だったかな)で両名とも全国大会の切符を手にしています。さらに佐倉中は4×200mリレー(800mリレー)で優勝、千葉県通信大会男子総合優勝等とんでもない結果を残しています。実はこの大会で佐倉中が狙ったのはリレーの優勝だけではなく、当時の日本中学校記録を更新することでした。当時の陸上競技の大会で単独の学校単位で出場できる最も大きな大会は県通信大会です。全国大会にはリレー種目はまだありません。県総合体育大会、通称県総体は支部の代表で構成されるためその佐倉中メンバーに他校の生徒が一人だけ絡むことになります。試合が終わり選手の選考会議が始まりリレーの選手を選ぶ場面になり順当であれば佐倉中の3人、菅野、芦崎、菊地に富里中の渡辺になるはずです。この時佐倉中の窪田洲平先生が口を開きます。私に面と向かい「貴方も一生に一度か二度くらいは日本一という事を意識できる時があるかもしれない。その時は私の気持ちがわかるはずだ。だから今回は貴方の所の渡辺を外して佐倉のメンバーで総体を走らせて欲しい」と静かな口調で語り変え深々と頭を下げられました。

エッという感想です。本当にエッしかでません。そうくるかもしれないとも思っていません。不思議と不満は出ません。落ち着いてから沸いて出てきた感情が

格好良い  潔い  自分もこうなりたい  これを目指したいでした。

 当然この提案は快諾です。渡辺には200mに専念し今度は全国の切符を取ろうと伝えた記憶があります。県総体は、1走、根本 2走、芦崎 3走、菊地 4走菅野で臨みます。決勝前、窪田先生に呼ばれ今度は次の様に言われました。「根本は400mと3種Bで全国の可能性があったので両種目にチャレンジさせた。決勝は難しい。だから申し訳ないが決勝は渡辺をお願いしたい」と言って又頭を下げます。決勝は、多分、菊地、芦崎、菅野と佐倉中で繋いだ大量のリード渡辺がもらっての圧勝でした。
 昭和の時代ですので先輩は絶対といった感覚を持っていました。高校、大学と本気の部活動をやって来た人間からすると自分よりもはるかに先輩であり同時にその年に圧倒的な結果を出し、印旛郡の支部長の窪田先生が自分の様なピヨピユの新米に丁寧に話し頭を下げてお願いをする。格好良すぎると思います。それともう一つの理由は自分が陸上で頭角を現し始めたのが中学2年生です。この時初めて県レベルの大会を意識する様になり翌中学3年生時に千葉県の100mで優勝し全国大会で5位に入ることができました。しかし3年生時もし体調が万全であれば勝てなかっただろうと思う選手が二人います。八街中、鈴木寿良と佐倉南部中、石渡一幸の2名です。その石渡の顧問の先生が窪田先生です。そういったイメージからもすごい指導者といった印象が強くありました。その人が頭を下げる。この時から佐倉中にリレーで勝つことが自分のライフワークになります。実現するまで4年かかりました。1986年7月17日リレー出佐倉を破る目標が実現します。この時の4走を走った吉田暁はその年の全国大会で2年100mで5位に入賞し、翌年200mで22秒14の千葉県中学記録を樹立しました。2006年に東海大浦安中学の嵐川愛斗選手に破られまで県記録として残っています。印旛支部は窪田先生以外にも若い先生方を育てようとする空気がありました。それはチーム印旛といったイメージでしょう。
 

 そして1988年4月より浦安に帰ってきます。最初の赴任校は浦安市立見明川中学校。で感じた事を素直に言えば

 何  嘘でしょう  これが通用しちゃうの・・です。

 で、市川・浦安支部は  う~n でした。 

 ここから迷走とも闘争とも(時には逃走)思える人生がスタートします。そして,ほぼ10年間、県通信大会も県総体も勝負する場ではなく審判をする場となりました。只、審判は嫌いではなかったので年によっては選手0、審判のみの年もありましたが、それも楽しい思い出ではあると思います。印旛支部と市川・浦安支部の違いに不遇の10年弱に時間と当時の浦安の学校現場の状況で自分に変化(進化)したことがあります。自分は案外尖った面を持っていましたが表面的には真面目で素直な人間として生きてきましたが最後の最後では譲らない頑固な面があります。その譲らないために逃げる。近づかない等の方法をとってきたと思います。しかし、この10年弱の経験から相手にぶつかる、くってかかる方法も手に入れることができたと感じます。その方法は得策でないと悟るまでには多少時間がかかりましたがその時に学習した成功と失敗を分析しながら自分の中の引き出しを多く持つことができたと今になって思えます。そしてこれがメソッドの根源となる成功のピラミッドをつくる柱となっています。

今回のエピソードは1983年からの約15年くらいの時間の事です。次回は具体的にどの様な方法で結果を出していったかを解説します。

参考までに私が専門部長を引き受けた2002年の県総体と2006年の県総体の記録一覧を載せて起きます。男子だけなんですけどね。できれば女子も強化したかったな

 

 

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