メソッドのエピソード
2023年11月12日

これからの話をしよう

 付けは回ってくる

 支部を変える為に独裁者になろう。なぜなら市川のDNAと浦安の遺伝子を変える為には多少強引と承知の行動は必要です。市川のDNAとは競争相手を出し抜くためには多少ずるい要素があっても構わない。相手を出し抜くことが大切。それをちっぽけな範囲でやっている。浦安の遺伝子は白、黒の判断がその組織のリーダーの一存で決まり、組織の属する人間は絶対に意を唱えず従うことが徳という考え方。いくらリーダーが阿呆でも頭がぶっ壊れていても自分の思いとの妥協点をみつけて頑張る人が多い。それを良いことにやりたい放題の人間が力を持っている。ある程度こういう集団と距離をおいている人達もあまり関わりを持ちたくないのか修正へと行動を起こさない。しかし腹の中では含むものは沢山あったと思います。自分の他にも迷走・闘争していた人も居ましたが組織の中で孤立させられていたかもしれません。私は直接呼び出され指導とも恫喝とも言えないことをされています。ですから鵜沢校長先生には本当にお世話になりましたし木谷展先生には横面を張られた事もあります。今で言えばパワハラでしかない行為ですが私の事を思っての行動です。感謝しています。これが1990年代の状況です。他の学校の事情は解りませんが浦安の遺伝子の中には組織の中で組織の為に自分を抑える事が美徳とされる傾向が強くあった様に感じています。微妙に違う二つのDNAと遺伝子ですが共通している点は外へ向かず内へ向いている。そして特定の人間が得をしていると感じさせる雰囲気があり周りは干渉売ることを避ける。または無関心である。この理不尽さがバネが縮むようにエネルギーを貯めてくれたと今は思います。そのエネルギーを解放し自分を全絵面に出そう考えたのが2002年から引き継いだ、市川・浦安陸上競技専門部支部長の役職を得てからです。

 前回も書いたように市川市の顧問の先生方は専門の方が少ない傾向にありました。また専門外の先生方活躍できる場面というのが多くはありません。そういう方達にもできるだけ仕事を振る様に意識しています。最初のうちはそれで仕事が遅くなることもありますが記録会のプログラム編成が終わった資料を印刷し製本して会場に持ってくる。簡単な審判をできる限りやって貰うなどして自分たちも支部の一員であるといった意識を持ってもらう。また声かけをし一体感を出す。この様な場面で力を貸してくれたのが主に市川市の私立の顧問先生方でした。自分の学校内の状況に話を向けると組織の秩序が一番の優先順位にあったtp感じています。90年代の様に頭が壊れていると感じる方は近くにはいませんでしたがどうしても個よりも全体という意識が強く堅苦しい感じはします。どんなに良い結果を残しても隊列を乱す考え方はNGである。それが大きく飛躍するチャンスも潰している。これが素直な実感です。
 20代~30代前半で経験した闘争と迷走の学習から組織的なものには一切属さない。自分の考えで動くことを覚えそれを活かせる様になったのが二一世紀に入ってからです。その付けが回って来たのが2007年です。市川市の公立校の先生方が移動になります。このタイミングの移動は新採用で採用された先生方が多く一気に顧問の高年齢化が起こります。今まで若い先生方に振っていた仕事が全部こちらに来ます。学校内も混沌としていました。当時の堀江中はやんちゃな生徒もそれなりにいる学校ですが多くの生徒はやんちゃなりの筋は通していました。それが06年くらいから崩れ出します。そして07年の新1年生は異常でした。入学式の当日、学生服のボタンを全部外して座っている生徒、それも標準でない制服を着ています。入学してらの行動も異常でした。今までの生徒のやんちゃは自己主張が目的ですが、この生徒達の目的は教師を困らせること。その様に感じました。完全に小学校段階でできあがっていたと思います。当然生徒がいるうちは仕事はできません。下校しても期は抜けません。部活動など出られるはずもなく、しかし,支部の雑務は終わらない。この年4月~夏休みに入るまでは休みは無し、1日の平均勤務時間16時間、土日が平均⒍~7時間。部の練習を見れるのは土曜日のみ、夏休み中だけ普通にしっかりと見れましたが休み明けに頭が壊れます。簡単な計算ができなくなりました。10月くらいから体が壊れます。疲れが抜けない。この頃は朝練を指導することができなくなります。年明けに決定的な事が起きます。用務員に牧野さんという方がいました。この方を倉庫に閉じ込めるという事件が起きます。この時、授業で使いプリントの印刷をしていました。印刷機が倉庫の中にあり一人の場合は印刷物を持ち倉庫に鍵をかけます。この時は私と牧野さんの二人。雑談をしながら印刷を終え鍵をかけてそのまま授業に行ったので牧野さんを倉庫に閉じ込める事になります。授業が終わって職員室に帰ってきた時に牧野さんに呼ばれ病院に行った方がいいとと言われます。事情を話し順天堂病院で診察を受け1ヶ月休養の診断書が出ました。薬を処方され精神安定剤と睡眠導入剤。この時の診断は鬱でしたが違うと思い次の日にお茶の水の東京医科歯科大学附属病院で再度診察を受けています。診断は同じ、1ヶ月の休養を必要とする診断書がでます。鬱ではない思った根拠は疲れてはいたが気持ちが沈んでいるわけではなく睡眠剤はいらない。逆に家に帰れば3秒で寝れるくらいに疲れがとれない。疲れているだけだろうと考えていました。東京医科歯科大学附属病院からの帰りにまた事件が起きます。三省堂の先に交差点を右折した時に右折待ちで止まっていたタクシーに軽く接触事故を起こします。この時、自分が進みたいと思っている右側の信号が青、前方が赤。当然止まれですが,進みたい右側の信号を見て右折しています。当然事故が起きます。前にタクシーがいて助かりました。もしそのまま右折したら大きな事故になったかもしれません。信号も判断できないほと頭がぶっ壊れている事を認識し休みに入りました。

 これからの話をします

 休みに入ると壊れていた頭も少しずつ機能する様になりました。今までは漠然と思っていたことがはっきりとし始めます。これは印旛郡から浦安市に帰って来た時から頭の中にあったものです。当時ある学年の生徒だけが部活開始時間になっても来ない状況がありました。それはクラスによっても違いがあり学校の現場でスポーツを真剣に行うことは不可能ではないかと思う事が多くありました。また、私も経験がありますが学校現場で自分が指導できない部活動を持たされることもあります。場合によっては複数の部活動の指導をしなければならない事もあります。その経験は専門部長の時に陸上の経験のない先生方との接し方で参考にしましたが公立校の場合転勤があります。折角築いた支部の専門部も転勤先で陸上の顧問を任されるとは限りません。特に市川市の場合サッカー、バレー、バスケットといった球技に比べ陸上の顧問の先生が新しい学校でも陸上の顧問を任されることは少ないように感じていました。学校現場でスポーツをするのは日本とアメリカだけでヨーロッパでは若い選手からトップクラスへの準備段階の選手の育成はは地域のクラブが担います。サッカーはJリーグが設立され30年で学校の現場だけでなくそれぞれのチームの下部組織が地域と協力しながら若い選手を育てています。陸上の場合も顧問のいない学校にクラブの指導者を派遣し学校現場とクラブが良好な関係のもと生徒を指導する。この様な体制があっても良いと思います。しかし、今現在学校現場とクラブが良好な関係とは言えないと感じています。
 学校の現場から離れしばらくは仕事を転々としました。現場では一匹狼的な立ち位置で好きなようにやらせて貰いましたが、それで帰っても居場所は無いなとも考えるようになり、また帰っても今までの様にできないだろうとも思いました。そこで糸が切れたと思います。2010年9月から認可外保育園の経営をスタートさせます。そこでの経験でメソッドを作るうえでのヒントを沢山もらったと思っています。、また1才から中学生までの成長の過程が線で繋がった様にも思いました。07年当時の1年生が就学前の子供の頃からあれほど荒れているとは思えません。どこかのターニングポイントで間違った選択をした(あるいは大人がさせた)といった考えから「成功のピラミッド」という考え方が構築されていきます。元々はジム・レイアーの著書の中でスポーツにおける高いパフォーマンスを発揮する為のメンタルトレーニングだった理論が広がっていったと思います。子供もイヤイヤ期頃からは思春期の子供以上の葛藤を抱えています。自分でやりたい,でも上手く出来ないは、思春期の自立したい、でも許されないの葛藤に似ているのかもしれません。しかし、幼少期は思春期に比べ自分に対して素直に接することができるという強みがあります。その分子供の葛藤に大人が上手に対処できれば改善は思春期の子供に比べ格段早く、またやり方次第では子供の自信につなげることが容易です。このエピソードは以前書いた「悪い状態」や「公共交通機関で責任を教える」等のエピソードで紹介しています。また、認可外保育園であったことから「訳あり」の理由で子供を預ける親もいます。その様な保護者の相談にもベイサイドアスレチッククラブメソッドの考え方を参考にしてもらい対処しました。まだ漠然としていますが私が目指すクラブのあり方は只,選手を育てるのではなく人間を育てるクラブでありたい。その経験が陸上を引退した後により活かされるものでありたい。地域の中で学校や保護者も巻き込んだ子供を健全に育てるためのコミュニティーとしての位置づけを目指す。これがこれからの話です。

 後  記

 今現在63才になりました。世間では「じじい」と呼ばれる年齢ですが何を血迷ったか陸上クラブを立ち上げ、まだ生きたりないのか新しい事を始めようとしています。マグロみたいな物で止まっていられないのかもしれません。認可外保育園はコロナや就学前の児童の無償化などの政策で経営がたち行かなくなり21年3月31日を以て閉園しています。いきなり閉園と保護者に伝えては後が大変いなると考え20年4月からスタッフと協議を進め、続ける方策を考えましたがコロナでの緊急時代宣言もあり20年の7月段階で閉園の決断をし9月には閉園の通知をしています。当初閉園の連絡で多くの子ども達が認可園への転園をするとも思いましたが殆どの子供が残ってくれています。この時の保護者の方には本当に感謝の気持ちしかありません。
 この時期にメソッドのアイデアがある程度できあがりクラブ解説から少しずつ形にしていったのがベイサイドアスレチッククラブメソッドです。ですからこのメソッドは子育てでも充分活用できるメソッドだと思います。ただ世間の常識だけでは理解しずらい面もあり使う人を選んでしまうデメリットも多いメソッドです。陸上クラブ(短距離に特化)という形を取りますが地域で子供を健全に育てるコミュニティー。これがベイサイドアスレチッククラブが目指すクラブのあり方です。