独裁者とは全ての決定を自分の考えに基づいて行い他の意見を無視して行動する人間をいいます。2002年の4月から支部の改革を考えた時に先ず目指さなければならない姿が独裁者でなければならないと考えました。支部の状況を変えるには多少強引であっても行うべきことが散在していました。子供の頃から私は結構努力をするタイプです。そのうえ人が思いつかない様な発想力もありました。しかし、自分から全面に出るタイプではなくどちらかというと周りから押されるまで待つタイプです。自分から前に出て皆を引っ張っていく事は苦手な方です。その引っ込み思案で目立ちたがらない性格を変えてくれたのがこの闘争と迷走の時間だったと思います。闘争の時間に覚えたことが他人とぶつかることです。引っ込み思案安なだったこともあり他人とぶつかることが好きではないし得意ではありません。その背中を押してくれたのが理不尽です。前回書いたように学校行事よりも学級が優先される。それをお願いに行けば半ば恫喝まがいな指導を受ける。全く理不尽な状況です。最初に生まれた感情は「怒り」です。この怒りが迷走を引き起こします。この時の校長先生が鵜沢和夫先生という先生でしたが校長室に呼ばれ何度となく諭された記憶があります。ぶつかっているだけでは解決できないこともこの時期に学習させられました。今も思いますが鵜沢先生には本当にお世話になり、また迷惑をおかけしたと思います。でも,反省はしていません。
市川・浦安支部は当時何ひとつにまとまっていない烏合の集です。小さなこところで一番をとることが目的の二流三流の支部です。この三流支部を一流にするには先ず支部がひとつのチームになることが必要です。場合によっては自分のチームのことしか考えていない顧問を無視すること。あるいはこういった顧問の影響力を削いでいく事も考える必要もあると覚悟も決めています。学校の都合で顧問をやらされている先生、やる気はあるが指導が解らない先生達に指導についての情報をながすことを重要な取り組みのひとつです。「陸上の顧問は秘密主義」では支部は一つになりません。
次年度に行ったことは県大会の練習を行うことです。市川・浦安支部の大会で勝ち上がると次がすぐ県大会になるので一気にレベルが上がります。三流から超一流にとぶわけなので力を出し切れない選手が多くいました。一応支部の中には速い選手はいましたがその速い選手を強い選手にもする必要があります。その練習として松戸市記録会を使いました。松戸支部の専門部長の山内和幸先生が高校は違いますが同期の関係だったので松戸市記録会の要項を入手し支部の顧問の先生方に配りました。どう使うかは顧問の先生の判断に委ねます。次年度から県レベルの競技会や支部単位の記録会を一覧にした資料が県専門部から配布されるようなったり県単位での記録会が近隣の支部が纏まって開催する(県大会の練習ができる)様になり、いきなり県大会ではなくその前レベルの競技会で経験を積めるようになります。この時に一番最初に結果を出し始めたのが東海大浦安中です。
3年目からは少しずつ結果が出始めました。1年生の男子で有望な選手が市川中、東海大浦安中から出始めます。この年の県総体で複数入賞者が市川中から出ています。今までも強い選手はいましたがチームの力ではなく個人の力での結果と思う感がありましたがこの年の市川中はチームの力と言えます。このタイミングで支部記録会、支部総体後に標準記録を突破して県通信大会に出場する選手や支部を代表して県総体に出場する選手を紹介し支部がひとつのチームになる様な雰囲気作りを始めます。またこの時期支部の記録会を減らしています。支部の記録会は練習。松戸市記録会、船橋地区記録会が本番の練習。そして県が本番。そこを勝ち抜いて全国を目指す。こんな空気が少しずつできあがって来たように感じました。そしてこの年堀江中では宇田川左武選手が800mで県総体を勝ち標準記録を突破して全国大会の切符を手にしますす。
4年目以降は,今までの取り組みに加速が加わります。支部の男子短距離の勢いが出てきました。県通信大会 4×100mリレー 東海大浦安 4位。個人では、2年100m、2位 嵐川愛斗(東海大浦安)4位 星一樹(堀江)以上までが全国大会出場 6位 飯島陽亮(市川)と複数の入賞者を出しています。県総体 4×100mリレー 東海大浦安 3位 2年100m 嵐川愛斗(東海大浦安)2位 共通200m 星一樹(堀江)8位 男子総合 東海大浦安 4位 と総合でも支部代表の学校が入るようになり一流の支部になったと断言できる結果を出しています。同年の県新人大会で 2年100m 飯島陽亮(市川)2位 共通200m 嵐川愛斗(東海大浦安)1位 星一樹(堀江)2位 100mH 中川裕貴(堀江)4位 走高跳 寺井郁也(堀江)8位 4×100mリレー 堀江中 1位 東海大浦安中4位 男子総合で堀江中が3位 県通信大会だけでなくチームとしての総合で上位に進出し、複数チームが4×100mリレーで決勝に残ることができる支部になります。オープン種目ですが女子の棒高跳びで国府台女子の選手が1位 4位 7位の結果を残しています。
翌2006年の支部の記録会では中学生の競技会ではあまり目にできない光景が広がります。支部レベルの競技会で男子100mを10秒台で走っても勝てない。この年の全国の100m個人ランキングは 1位 嵐川愛斗(東海大浦安)4位 星一樹(堀江)になるので支部で勝つのに10秒台は必須という状況になりました。
2002年に市川・浦安支部専門部長に就任した時に5年間のビジョンで堀江中がリレーで全国大会出場と県レベル大会での総合優勝。一番の目標は4×100mリレーを市川・浦安支部が取るです。詳しい結果については前々回のブログに張った資料を参照して下さい。残念なこと前年から県総体の4×100mリレーが支部選抜から単独チームに変わったことですが、もし支部でリレーの選手を選抜することができたならば中学記録をも視野に入れたチームが作れた可能性があります。
5年間ですが意識して行ったことは簡単なことです。支部は一つのチーム、顧問も選手もワンチームで頑張ろう。内を見るより外に目を向けよう。結果を出す為に必要なことを具体的に考えよう。これを行うためある程度は独裁的に進めていくことは不可欠と考えました。当然,独裁者が自分の為だけの独裁では支部は発展しません。他の学校も同じ様に強くなることが支部の実力を上げることになります。支部内での競争は不可欠です。支部が良い畑でなければそれぞれのチーム(学校)の種は育ちません。しかし付けは回って来ます。それと、大層なことを言っていますが所詮これは昔話です。ほぼ20年近い昔、昔の物語みたいなものです。次回はこれからの話をします。付けは新しい考え方とメソッドを完成させるヒントを沢山くれました。そのヒントどの様に未来に繋げるかのお話です。
後 記
私がメソッドを作る時、ジム・レーヤー著 メンタルタフネストレーニングという本を参考にしました。この本は91年の夏頃神保町の三省堂書店で購入しました。丁度、闘争とも迷走ともつかない時期のことです。もとの形はピラミッド型ではなく円上の図を使ってものですが著書のなかで葛藤が成長に必要な条件であることその際の脳内ホルモンであるアドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミンを上手に使うことが成功の鍵だと認識しました。今の自分の状態が不満の域でそれが迷走の原因を気づかせてくれたのがこの「メンタルタフネストレーニング「です。人を鍛える一番の材料は「理不尽」です。しかし、これが厄介なもので上手に使わなければ自分をも傷つける諸刃の刃であること。この武器をどう使うかを学習させてくれた「闘争と迷走」の時間は今思えば貴重です。当時は不満しかありません。殺意がわいたこともあります。正直な感想です。
下の図では葛藤の後、この時期を成功のピラミッドに当てはめて考えたものです。当時、不満の域の中でありこの時間がもう少し続けば確実に無関心に落ちていたかもしれません。記事中の「陸上の顧問は秘密主義」はこの不満を現す言葉です。これはその地区が持っているDNAや遺伝子の問題も多く、実際このDNAは許しがたいと思う事例を作っていますがこれは墓場まで持って行きます。また書いてはいませんが独断で決定したことも幾つかあります。